日曜日、ゆっくりクラッシックを聴いて

 午前中のNHK-FM放送で「作曲家の自作自演・名演奏」を聴いていました。中でもラベル自身の指揮による「ボレロ」、ホルスト指揮による組曲惑星より「木星」、リヒャルトシュトラウス指揮の「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快な悪戯」は大変興味深い演奏でした。多分事前に何も聞かされていないなら、大した演奏とは思わないかもしれないのに、作曲者自身の指揮だと分かってしっかり聴いている自分が、少し恥ずかしくなったのです。録音技術もよくない半世紀以上前の録音ですからあまり音質も良くないですが、作曲者自身の演奏ですから誰もその音楽的な解釈には、文句も批評もつけられないのです。そう考えれば自分の頭の中でのそれらの作品のイメージがどのように形成されたのか、など考えていました。
 同じ作品でもクラッシックの場合、指揮者や演奏しているオーケストラや音楽家でかなり印象は変わってきますし、自分の聴くときの環境でもまたまた変わってきます。若い頃には何も感じなかったメロデイーに、歳を重ねてきた最近泣きそうになるほど心を揺さぶられる時もあります。でもクラッシックがずっと生きながらえてきたのは、常に誰かの心をとらえ感動を与えてきたからでしょう。それは歌謡曲やポップスの名曲には言えるでしょう。
 私が作曲を勉強していた時に私は、あるバンドの指導者から吹奏楽コンクール用の自由曲の作曲を頼まれました。前年自由曲の編曲を頼まれコンクールで演奏し高い評価(金賞)をもらっていたからです。その翌年は編成も小さくそんなに楽器が吹ける生徒も多くなかったので、いわばそのメンバー一人一人の技量に合わせて作った作品でした。そんなことが今許されるのかどうかはわかりませんが、作品は練習しながらより吹きやすいように書き換えまた仕上がりも、打楽器やピアノをもっと使うなどしてより効果的な作品になりました。自分でも想像以上に仕上がりコンクール本番を迎えました。多くの審査員が我々のこの取組を評価してくれていましたが、一人審査員が「曲の解釈が良くないところがあった・・・。」と書いてあったのです。県外から来た審査員でしたが若い私やその指導者の方は「審査員は作曲者より曲の解釈ができるのか?・・・」と思ったのです。それ以来解釈がどうのこうのという審査員や音楽評論家の言葉は聞かないようにしていましたが、今日改めて大作曲家の自作自演の演奏を聴いて「音楽の解釈には絶対的なものがないから色々な解釈ができて、だから面白いのだ!」と気が付いたのです。まさに目からウロコでした。分かっていたつもりでしたが、実際に自分自身で確信できました。
 少し最近塾の事で忙しすぎたようです。やはり音楽は私にとって心の潤いですね、生演奏が聞きたくなりました。そう思うと聞くより演奏したくなる私です。しばらく触っていなかった楽器を今日は手入れをいたしましょう。曇り空から桜の花には酷な雨模様ですが、ゆっくりとした日曜日です。