どこへ行った英語の筆記体

  中学1年生で英語を始めた生徒に「英語の字の続けたのはいつ習うのですか?」と、聞かれる時があります。「筆記体だね、多分学校では習わないと思う。自分の名前くらい英語の続けたので書けたらかっこいいよね・・・」というと、みんな少しがっかりしたような顔になります。「教えてあげようか!?」というとほとんどの子が「教えてください!」というのでノートに名前だけ見本に書くと、自分から進んで家でも練習します。
 中学校の先生に以前「どうして学校で英語の筆記体を教えなくなったのでしょう?」と聞いたら「教えなくても良くなったからです。」という答えが返ってきました。彼らはしなくても良いことは極力しないようにして、出来るだけ自分のミスを出さないようにしているように感じました。確かに活字体を教え込むのさえ時間が必要ですから、筆記体までとなるとその倍の時間が必要になるわけで、そんな時間があったら先に進めたいと思うのでしょう。でも私の中学生の頃は筆記体は必須でしたし、先生も筆記体で授業をしますから出来ないと困るわけです。一度習えば上手に書けなくても読めるようにはなる筆記体です、もう一度学校で復活できないものでしょうか?
 英語圏でタイプライターの発達の陰には、各自の文字の筆記体があまりに癖があり読みにくいことが原因で、公文書などは皆が理解できるようにタイプで文章を残すようになりました。日本人にもワープロの発達は字を上手に書けなくなる一因になっているようにさえ感じます。でも字が上手で得をするという感覚は漢字圏の文化を持つ民族だけのようで、欧米ではあまり字を上手に書いて得をするということはないようです。だからこそ日本人だけでも英語の筆記体を上手に書けることが大切に思うのです。江戸時代のような毛筆草書の学習時間をずっと保っていれば、今の私でも古文書が楽に読めたことでしょう。これは我が国固有の文化です、英語の筆記体を学ぶ事も英米の固有の文化に触れられるチャンスのようにも、感じました。