最終回の八重の桜を見て

 毎週日曜日のこの番組が楽しみだっただけに、一抹の寂しさを最終回には感じてしまった。高知には「はちきん」という男勝りの女性の愛称があるが、新島八重はそれなどかかりもしない「ハンサムウーマン」であったのだ。彼女の人生は、自分の心に正直に生きた人生だったように思う。やりたい事を先の目的や楽しみにするのではなく、その瞬間を深く生きていたのだろう。いうなれば目標や楽しみを、今の事に変えて行けた人なのだろう。私が理想とする「自分の人生は自分が監督で脚本家で主演の人生劇場」の生き方を、まさに実践された方なのだ。
 私も多くの方に教えられ助けられ今までやって来られたが、節目節目に女の先生にめぐり合い、成長して来られたようにも思う。今まであまり語っていなかったが、大学済んで高知に帰ってきた時にテレビで松下幸之助が、自宅の茶室で会社の幹部連中を集め、茶をふるまったいる姿を見て、「自分もいつかこんな人間になりたい!」と思った。即実行に移す私は自前の茶室は今は持てないが、茶道は今からでも習えて自分が松下幸之助の歳のころには、茶道の達人になれていると考え、友人の祖母の方がお茶を教えていると聞き、さっそく入門させていただいた。当初は大変だった。足はしびれるし作法はたくさん覚えなければならない。でもその女の先生が表千家の男手前でお茶を立てる姿に魅かれ、気が付いたら5年も習っていた。先生自身も、私がそんなに続くとは思っていなかったらしい。
 一通りお手前ができるようになり、お手伝いである茶席で茶を立てることになって、無事終えてほっとした時正客の話にうまく答えられなかったのである。使った茶碗の由来はある程度頭には入れていたが、他の客で回っていた茶碗までは調べていなくて、その茶碗の由来を聞かれて何も答えられなかったのだ。幸いにもその時はその由来を知っている方がいて助かったが、後日師匠にすごく怒られたのだった。「あなたが私の弟子ということはお茶席にいた人はみんな知っている。一応大きなミスもなくお手前ができた事は評価するが、最後の詰めが甘い、それは師匠の私の恥だ。」と諭すような注意のお話であったが泣きそうになった。それ以来稽古以外では、茶の湯を茶席では立てていない。その先生も明治生まれの矍鑠(かくしゃく)とした、女性であったのである。祖母の思い出のない私には、実のおばあちゃんのような気持ちを感じていたのかも知れない。
 その茶道を流派は違っていても、新島八重も最後に選んだのである。あわただしい私の今の環境、生きるのに必死な毎日だからこそ、静寂に包まれる中の凛とした空間での茶道の記憶が、新鮮に浮かぶのかも知れない。茶道は花嫁修業などで決して短期間習うものではない。人間的に惚れられる師匠を見つけて、人生に渡りゆっくり学ぶものなのだと今わかった私である。中谷春枝先生 ありがとうございました。