塾で出来る事、できない事。そしてそれを知る大切さ

 有名予備校講師、林修氏の大学卒業以来の半生をドラマにした先月放送の「ターニングポイント」を、友人からのDVDで見せてもらった。彼の人間性をどうのこうのと批判するつもりはないが、やはり少し変わった個性の持ち主で、その半生もなかなか我々にはまねできないものであった。当初予備校で英語講師を一時的な借金返済の手段として始めたようだが、自分には大学受験では数学が一番成績が良かったから向いているかもしれないと数学講師に転向するも、数学を深く専攻した講師たちに表面的な受験問題しか解けない自分が彼らに太刀打ちできるだろうか・・・と不安になり熟慮の結果、昔から好きだった文学に関した国語なら自分は負けないかもしれないと思い、現代文講師になったそうだ。その話も興味深かったが、彼は思うようには現代文の予備校講師では稼げないので、関西の私学に大学受験合格請負人として外部講師として受験指導に赴くのである。彼自身人間嫌いの少し変わった性格の持ち主であり、関東からなれない関西での仕事は大変だったようだが、国語の受験対策授業において5年後には100倍以上の飛躍的な実績を上げたそうである。林氏曰く「そこでの経験で自分ができる事よりできない事が分かったことが、後々の大きな財産になったような気がする・・・。」と回顧していたのが印象的であった。13年間その外部講師を務めて今の彼があるわけであるが、私立の学校とはいえ予備校とは全く違う生徒への対応に彼は、学校の先生は自分には性格的にもできないと分かったようなのだ。
 果たして学習塾はどうだろうかと考えてみた。高校を卒業してもうすぐ成人になる人間が集まる予備校と、10歳くらいの小学生から多感な思春期の10代の中学高校生が集まる学習塾とはやはり我々講師の仕事も違っては来るだろうが、主たる目的は成績向上であり希望する高校や大学への進学である。だが集まって来る生徒はまちまちで主たる目的を果たすためには、生徒の生活環境や考え方も変えなければいけない時もあるように思うが、それには到底塾としてはできる事とできない事があるのだ。しかし塾によってはそれら個人的や家庭の問題にまで大いに立ち入り、それを主たる目的と同じくらいの要素として生徒を集めているところもある。果たして両立は可能であろうか・・。
 小学生には本好きになって欲しいとまた、彼らが大人になって童話の一つでも我が子に語れる人間になってほしいと願い、毎回童話を数分間聞かせている。一度聞いただけでは記憶に残らないだろうと速聴を兼ねて同じ話を毎回の授業で1回、合計5回繰り返し聴かせている。その間子供は心を落ち着かせ文字を追い想像力を膨らませながらさらに、毎回速くする速聴により脳の処理能力を鍛え理解度を深めているのである。その背景には親が今は子供に物語の読み聞かせをほとんどさせていない背景がある。その童話に関する面白い話に「こぶとり爺さんの話を知っているかい?」と中学生に聞いたら「小太りの爺さん?」と聞き返してきた生徒がいたので、その童話を聞かせたらすっかりそれらの童話にはまってしまい、毎回聴くようになったのだ。それには話の続きがある。私の教室の童話は同じ内容で英語でも収録されている優れものの教材で英語でも同じように速聴できるから、その子はそれも聴くようになったのだ。プロのナレータが語っていてそれはきれいな英語で、何度か聞いているうちに英語でも話を覚えてしまい学校でもその英語の表現力は話題となり、中学生の英語弁論大会に出場して上位入賞そして特別賞までもらってしまったのである。その子はすっかり英語が好きになり今は学校の英語の先生をしている。できる子はその科目を「面白い!」と感じているのである。これらの話からもミシガンの30年の歴史を感じてもらえるであろうし、振れない一貫した各自に対する個別指導をご理解いただけるであろう。講師は所詮雇われでありいつ辞めるかもしれないし、できる講師ならなおさら前回のブログで書いたように裏切って独立するかもしれないのだ。それなら強い理念を持った塾長が自ら直接監督指導してゆく講師など入れない塾が理想ではないだろうか。パソコンなどの特性をうまく使ってさらにこの点がはっきり他の塾とは違うところである。
 挨拶も始まりと終わりにはきちんとさせている。人間として大切な事だと思うから、小学生から高校生まで全員毎回させている。また入口に置いて生徒任せにせず、授業の前には必ずアルコールで私自身が挨拶時に年中手を洗わせ、生徒のその日の様子を確認している。成績アップには関係なくて塾のすることではなく、そんな暇があったら問題の一問でも解け・・・と笑う塾関係者もいるかもしれないが、これも私の塾でできる社会教育なのである。塾は生徒が増え講師が増えてくると必ず塾長の考えやポリシー行動は薄められてきて、最後にはどうでもよくなり消えてしまうからだ。だから教室定員は守り教室も私がいる教室だけにしている。そして、勉強以外の個人的な家庭的な事には学校のようには触れない事にしている。相談されれば相談乗り場合によっては関係機関を紹介するくらいしかできない。私は仕事だから塾で出来ることは精一杯するが、できない事はできないとはっきり言うようにしている。
 林修氏は優秀で予備校の講師だから今大成をしているのだろう。小学生相手の塾の講師はできない思うしする必要もない。自分ができる能力とそれを相手に理解させてさせる能力とは、明らかに違う。だから大学の教育学部があり教員免許制度があるのだ。でもそれら専門教育を受けた人たちばかりが集まっている学校に、それらの教育を受けていない予備校講師が受験指導をして成果を上げる現実に、何やら我が国の教育はこれで良いのか・・・とも思わないでもないが、教育は受験ばかりが教育ではない事は林修氏を雇った私学の先生たちもわかっているので、なおさら分からなくなってしまう。まずはプロの私は求められる各生徒の要望を叶えてゆくように、各生徒の立場に立ちながら出来る事を一緒に今後も頑張ってゆく所存である。