塾の企業化に思う

 ある塾の研修会で講師が「私の塾は株式会社ですから、会社設立の趣旨は「営利」です。売り上げを増やす努力なら何でもします・・・」と話していた。その瞬間から私はその講師が異次元の人に見えたのである。塾を企業として経営するために最初から、かなりの金額を銀行から融資を受けて立派な建物の中で立派な教室を作り、生徒募集には数十万枚のチラシを撒き講師も、社員として雇用して最初から100人規模の教室で始めたそうなのである。その最初から私が塾を始めた理念とは違う訳で、教育者として自負する自分とは、同じ塾経営者でも全く考え方が違うのであった。私が知っている大手の塾も最初は、一人の熱き情熱を持った教育者が立ち上がったことから、発展して大きくなった塾しか知らなかった。その中から大手塾の経営手法が確立したものであろうが、今ではその手法を大手から逆に買って、最初から大手塾として経営を始める塾経営者が増えてきているのである。その経営者が生徒を教えられるかなどは関係なくて、いかに講師を集めて生徒を集めて売り上げを上げ儲ける事に専念しているのだ。
 しかし少子化の昨今、チラシを大量に撒いたとしても生徒はそんなに集まらないだろう。すると集まった生徒からいかに多くの授業料をもらえるようにするのかが、経営者や講師の評価につながるのだそうだ。こうなると講師は営業社員も兼ねていると言ってよい。具体的な金額は差し控えるが、我々の常識をはるかに超えた金額で塾料金が決まっていた。それで納得して親は出すのか、また効果が無かったらどうするのだろう・・・と心配もするのだが、効果が上がっているから親はその金額を支払い、教室は存続して講師たちは生活できていると聞くと、いったい私の塾と何が違うのだろうか、と考えるのである。多分その全員が目指す成績が取れて、目指す志望校に合格しているとは到底思えないし、私が親だったらそんな金額など毎月払えるわけはない。そこまでして勉強しないとできない我が子なら、自分でできる範囲で進める学校に行かせるのだが、その今の自分を基準にした考え方から脱却できないと、儲かる経営者にはなれないと聞くと、異様な違和感を私は感じてさらに天から、「自分の信ずる今の形式で塾を続けよ!」と強く言われているようにも感じるのである。
 ふとわが塾の授業料を思い返した。自分が親だったこれくらいが妥当だ、と思って授業料を決めている。講師も自分だけで塾の時間を早く終わり、家での復習時間を持ってもらえるようにしている。授業時間も短いから授業料は高くならないし、それが良いと今でも信じている。病気治療と一緒で自分で治そうとする気持ちが無いと治らないように、塾だけで勉強させられても家で自ら勉強できなければ、成績は上がらないとやはり私は考えるのだが、それを話すと「人間はそこまで強くないのです。病気だって重症なら強制入院させるではないですか、私の塾は成績を上げるために何をどうしたら成績が上がることを生徒に教える事よりも、まず塾で強制的にでも実践させて結果的に成績を上げて、それに値する金額のお金を納得の上でもらっているのです。なかなか自分で勉強する方法など教えられる講師はいないし、生徒が自分で勉強できれば塾など来る必要はないのです・・・。」この考え方には私は何も言えなかった。企業的にはなんら間違った考えではない。営業職が売り上げを増やしてボーナスをもらうのも同じである。しかしそれが我が子担当の講師だとしたら、心境は複雑だ。
 でも私は病気で言えば、病気を治しながら病気にならないようにする方法まで、指導しているのである。時間数を増やすように勧める事もあるが、強く勧める事もなくあくまで決定権は保護者にゆだねている。確かにこれでは儲けられないかもしれないが、生徒は若いから将来がある。その先々でも役に立つ勉強法を身に付けさせたいと思うし、授業料は自分が生活できれば十分だとも考えている。そして一番「小笠原隆政塾長本人が、直接面倒を見る塾」でずっとやってきたし、これからもやってゆく。将来はもっとストイック(禁欲的)な塾経営をしてゆくかもしれない。
 塾の企業化を私は否定はしないが、やはり儲け至上主義の考え方は企業とは言っても、既存の企業とは一緒には考えるべきでないと私は考えるのである。でも病院と決定的に違うのは「命のかかわる事」ではないという事で、塾に強制入院しなければならないほど勉強分からない病が重症ならば、受験など大切な時期なら月収のかなりの金額を塾代に使うのは、人によっては仕方ないのかもしれない・・・。
 そんな事にならないように、今から自分で自宅で勉強できる方法をミシガンで小笠原の元、今から始めませんか、今なら入塾金が不要です!