2010年4月1日 おかげさまで開塾25周年

 1985年4月1日 高知の名所である播磨屋橋から歩いて2〜3分の8畳ほどのワンルームに、塾ミシガン高知の前身であるミシガン・アクションイングリッシュ高知(ミシガン英語教室)を開きました。おかげさまで26年目に入りました。ある友人からは「30年続ければ歴史になりますから頑張ってください。」とエールをいただき、70歳くらいまで頑張ろうか・・・などと思いました。教室の沿革はホームページに詳しく書いてありますから、ごらんになってください。http://www.geocities.jp/pegasus_kochi_sanbashi/room.html

 なんで英語の教室を始めたのかと思い出していました。学生時代から映画が好きで、映画音楽から音楽にのめりこんで行ったような気がします。学生時代は音楽ばかりでした。演奏だけでは物足らず作曲や編曲、指揮もやっていました。楽器を吹くよりか指揮の方が自分には才能があったようで、30代で音楽大学出身者などいる150人の大合同吹奏楽団の指揮者に選ばれました。でも音楽ではとても生活などできなくて、それまで勉強をしていた英語が今になっては助け舟になりました。
 最初は「英語が話したい!」それだけです。既存の高い英会話教室など行かず、ひたすらラジオ講座を聴いて2年ほどしたら講座の英語が全部分かるようになっていました。今思えば音楽で鍛えた「耳」があったのが良かったかも知れません。すると話したくなります。アメリカ留学中の友人のところに遊びに行って「英語がうまい!」と褒められていい気分になり、自分の英語を試したくなりました。検定や特に人前で英語を話し審査される県知事杯争奪英語弁論大会に興味が湧き、少ない社会人枠で予選を突破して3年連続出場できとうとう3年目には、主催者である高知の大学ESSの出場者達に大差をつけて優勝をしてしまいました。もちろん社会人では初めての快挙です。そうなると今度は自分の英語を還元したくなり、教えたくなってそれにはまず本場で英語を勉強しようと、アメリカの大学研修に参加しました。宿題の多さには閉口しましたが、語学だけでなく文化や歴史を一緒に教養学部で学べたのが良かったです。ですから私はアメリカに行って英語がペラペラになったのではなくて、日本である程度ペラペラになっていたからアメリカで、いろいろ勉強できたのです。ですから、アメリカに行って勉強したい若者に私はいつも、「飛行機降りたら周りは英語だらけだから日常生活をする上で最低限の英会話力は必要だ!」と口をすっぱくして話しています。
 でも実際のアメリカで私が感じたことは「自分は日本人である。」ということでした。いままで考えたことのない「自分は日本人」という強いアイデンティティーだったのです。米が食べたい、風呂に入りたい、畳の上で生活したい!を痛感し、また語学に対していくら勉強しても英語はアメリカ人にはかなわない、と分かりました。ですからどんな英語でもしっかり学べる基礎会話力の付く初心者に特化した教室を作ろう!と考えミシガンメソードを導入しました。私が英語を我流で学んだ順番が、まさにミシガンメソードの方法だったからです。超初心者そして初級コースに特化してこれが当たりました。マーケット的に圧倒的に英語の分からない、話せない人が多いからです。どちらかといえば教えるのに大変手が掛かり面倒なレベルですが、これをやり続け何とか飯が食えるようになったのです。やはり英語力はある程度付くと文法も大切だと感じ、学校英語を教えるようにもなりました。当初分かってもらえるように教えるのは難しかったですね、しかしこの経験が今主催する「小学英語研究会」で大変役立っています。教室はしばらくすると英語だけでは生徒さんの要求に添えなくなり、他教科も学べる総合的な今の塾の形態に発展してきました。この25年間いろいろな人に助けられ影響を受けてきましたし、知らず知らず自分もその立場になっていました。やはり忘れてはいけないのは「最初の情熱」だと思います。
 同窓会で時々言われました。「お前が英語を教えているとはね・・・音楽しかやっていなかったように思えたけど・・・」すると私は「学生時代に成績がよかった君が、英会話の一つも出来ないとはね・・・」と心の中でつぶやきます。彼らの前では私は英会話が出来る男では困るのでしょう。常に下に見たいのかも知れないし、学生時代から私が進歩していないように思っているかもしれません。逆に進歩のないのはこの方々かもしれませんのに・・・。彼らの忘れている「情熱」を私はずっと持ち続け進歩しているからです。それはきっと10年後に、もっとはっきり差がついている事でしょう、新たな歴史を作るために当初の「情熱」を忘れず、精進していく所存であります。