平安人の時間表現を考える

 新聞の記事で興味深い記事を見つけましたので、ご紹介いたします。源氏物語枕草子などの時間概念についてです。当時日付が何時に変わったかという問題だけでもはっきりしていなくて、最近になって「寅の刻、午前3時ごろ」だと決着したそうで、その頃になる事を動詞「明く」で表現していたそうです。でも私達は源氏物語を読んで「明く」を夜が明けると解釈していたわけですが、正確には「午前3時になった」という意味になるわけです。多分その頃は真っ暗なわけですから、源氏物語によく出てくる「夜這い」などしていた当時の男性人は暗い中、人目に付かずその現場から立ち去れたことになります。
 いわゆる「朝帰り」なわけですが、昼寝も出来ない忙しい現代人には「午前3時」にその現場から立ち去るのは、さぞ大変でしょう。興味本位に古典の名作を解釈するつもりはありませんが、もしこの話を現代に置き換え現代文で表現したら、多分教科書には載らないでしょう。しかし藤原摂関家の時代で一条天皇というモデルがあったにしろ架空の人物の「光源氏」は、いつの世も男性の憧れかもしれませんし、見方を変えれば現代、成人映画とされている映画も後世には、立派な古典映像となるかもしれません。まずないでしょうが・・・。
 全然違う話ですが、フランスにピアノで留学していた知人がドビッシーのピアノ曲「雨の庭」のレッスンを受けたそうです。日本でその曲を弾くときには日本の庭に雨が降っている様を想像して引いていたそうですが、現地で習うとその庭というのは石畳のとても広いコンコルド広場で遊んでいる子どもたちに降り始めた夕立で、急いで走って帰っている様子を表したものだと教えられ、本当の「雨の庭」の意味が分かったそうです。
 古典にしろ音楽にしろ解釈がいろいろあるから面白いようにも思いますし、地域によっては午前3時には夜が明けているところもありますから、その地方地方でまた新たな解釈が出来てより深みが増すようにも思います。何が正解などとは言えないかもしれませんが、いつの世も人の心をつかむ作品が語り継がれて名作として残っていくのでしょう。
 このブログもいつかまとめて本にでもしましょうか・・・。いつ読んでもなるほど・・・といえるような硬軟の話題を選んでいるつもりです。ですからこの先せめて自分の子や孫には読んでもらいたいと思うかも知れませんが、「私の今その時の存在」を表現している事は間違いありませんから私が将来読み返して、一番感慨無量になるでしょう。